資料室


原爆報道・宣伝・検閲関連資料


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1945年(昭和20年) 8月 9月 10月
1946年(昭和21年)  7月    


 原爆投下以降どのような報道・宣伝がされたか、政府、大本営、GHQなどの動きを資料をもとに、書き出しました。文末は出所。
■参考文献■
「ヒロシマはどう記録されたか」(NHK出版 2003年)  「原爆三十年」(広島県 1976年) 「言論統制下の記者」(朝日新聞社 1988年) 「広島反転爆撃の証明」(文芸春秋 1989年) 「年表ヒロシマ」(中国新聞社 1995年) 「広島 昭和二十年」(中央公論社 1975年) 「封印されたヒロシマ・ナガサキ」(凱風社 2008年)  「原爆 表現と検閲」(朝日新聞社 1996年) 「広島 TODAY」(連合出版 1983年)  「原爆犯罪」(大月書店 1985年)  「ドキュメント 核と人間」(中国新聞社 1995年)  「もう一つのヒロシマ」(中国新聞社 1985年) 「敗戦日記」(中央公論新社 2005年)「広島原爆戦災誌」(広島市 1971年) 「原爆爆心地」(日本放送出版協会 1969年)


 1945年(昭和20年)8月

6日(月)  午後6時のラジオ放送(NHK)、「8月6日午前8時20分、B29数機が広島に来襲、焼夷弾を投下したのち、逃走せり。被害状況は目下調査中」 「原爆三十年」(99P)
7日(火)    朝、サイパン放送「アメリカ本国より太平洋方面へ『ウラン』爆弾100個を送り、その最初の一個を広島に使用せり」(呉鎮守府機密報告) 「ヒロシマはどう記録されたか」(266p)

 日本時間午前1時半過ぎ、原爆投下から16時間後、米大統領トルーマンがホワイトハウスで声明。サンフランシスコ放送が伝えた。「16時間前、米国の航空機1機は日本の重要軍事基地広島に1個の爆弾を投下した。その爆弾はTNT火薬2万トンよりも更に強力であり、戦争史上最大の爆弾たる英国のグランドスラムの2000倍以上の爆破力を有するものであった。日本は、パールハーバーで空から戦争を開始した。そして、彼らは何倍もの報復をこうむった。にもかかわらず、決着はついていない。この爆弾によって、いまやわれわれは新たな革命的破壊力を加え、軍隊の戦力をいっそう増強した。同じタイプの爆弾がいま生産されており、もっとはるかに強力なものも開発されつつある。これは原子爆弾である。宇宙に存在する基本的な力を利用したものである。太陽のエネルギー源になっている力が、極東に戦争をもたらしたもの者たちに対して放たれたのである・・・。現在、・・・(略)と表明、日本政府が降伏しなければ、さらに原爆で攻撃すると警告している」 「ヒロシマはどう記録されたか」(238p)

 陸軍船舶司令部(広島)松島大尉、7日を迎えたばかりの真夜中、ラジオの短波で、アメリカトルーマン大統領が日本の広島へ投下した一個の爆弾は原子爆弾であるという声明を傍受。声明は最初に英語で、次に日本語で約30分間にわたって行われた。 「原爆三十年」(92p)

 「広島を焼爆」(見出し) 「六日七時五十分頃B29二機は広島市に侵入、焼夷弾爆弾をもって同市付近を攻撃、このため同市付近に若干の損害を蒙つた模様である(大阪)」(朝日新聞・東京) 「言論統制下の記者」(103P)

 「天候回復、敵襲にそなへよ 西宮、広島暴爆 今治、前橋等にも来襲」(3段見出し)。記事は「広島六日七時五十分ごろB29二機は四国東南端より北進、香川県西部を経て広島市に侵入、焼夷弾、爆弾をもつて同市附近を攻撃の後反転、八時二十分ごろ同一経路を土佐湾南方に脱去した、このため広島市附近に若干の損害を蒙った模様である、敵米はわが中小都市、重要工場などの爆撃は夜間を選び、専ら自軍の損害をさける隠密行動をとつていたが昼間、偵察をこととしていた敵がわが方が油断したと思ったか、白昼僅か二機を持つて爆弾、焼夷弾を混投したことは今後十分警戒を要する」。(朝日新聞・大阪)
 (著者・注) これらの記事には近畿から九州の一部までの地図がついており、米機の侵入、攻撃、離脱の経路が示されているが、広島市内に対する爆撃はふくまれていない。これは軍発表文にある「八月五日二十一時三十分ごろより、六日三時にわたる」間についての図であるためである。「言論統制下の記者」(103~104p)

 東郷茂徳外相が(上記)情報を聞いて、すぐに陸軍へ真実か否かを尋ねた。陸軍は、アメリカ側は原子爆弾といっているが、そうではなく、非常に強力な普通爆弾のようだという返答であった。 「原爆三十年」(92p)

 朝、トルーマンの声明を伝えるマル秘扱いの「適性情報」が旧陸軍原爆研究開発計画を指導していた仁科芳雄博士(理化学研究所主任研究員)に届けられる。「民間人に渡すのは極めて異例」 「中国新聞」2008年8月4日

 7日付ニューヨーク・タイムズ、「初の原子爆弾を日本に投下。トルーマン、敵に『破壊の雨』を降らすと警告」(見出し)で10ページにまたがる大特集。 「ヒロシマはどう記録されたか」(239P)

 情報局部長会議が開かれ、協議の結果、次の宣伝報道対策を決定した。
一、対外的には、かかる非人道的武器の使用について徹底的宣伝を開始し、世界の輿論に訴える。
二、対内的には、原子爆弾なることを発表して、戦争遂行に関し、国民に新たなる覚悟を要請する。
 この決定事項にたいして軍部は、次の理由により、まったく認めない態度をとった。
一、敵側は原子爆弾使用の声明を発表したが、これは虚構の謀略宣伝かも知れない。したがって我々は充分科学的に調査した結果を見なければ、原子爆弾なりと速断することはできぬ。
二、かかる重大放送により、国民の心理に強い衝撃を与えることは、戦争指導上反対である。 「原爆三十年」(92P)

 情報局は「敵側は原子爆弾であると称して発表した」と報道するという妥協案を提出したが、軍部はこれにも反対し、内務省も軍部に同調した。「言論統制下の記者」(111P)

 「一、昨八月六日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり 二、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり」(八月七日十五時三十分) (大本営)「言論統制下の記者」(103P)

 中国新聞が高野県知事布告を可部あたりの印刷所でタブロイド版60枚印刷し、市内各所に掲示した。又同日、口伝隊を組織、比治山、饒津神社、東西練兵場などでメガホンで伝えた。最後に「決して心配はありません」と結んだという。 「ヒロシマはどう記録されたか」(201P)

 広島中央放送局、7日に広島県知事が発表した「知事告諭」を午前9時、10時、11時に原放送所(祇園)の予備スタジオより放送。放送再開の第一声。 夜、呉・吉浦の呉鎮守府広島派遣隊本部で呉海軍工廠火工部長三井大佐らが広島に投下された爆弾について検討会議。三井は「マリアナ放送がウラニウム爆弾を投下したと報じている」と発言。 「広島反転爆撃の証明」(17P)
8日(水) 「広島へ敵新型爆弾 B29少数機で来襲攻撃 相当の被害、詳細は目下調査中」(4段見出し)(朝日新聞・東京) 「言論統制下の記者」(103P)

 「落下傘つき 空中で破裂 人道を無視する惨虐な新爆弾」(見出し)と次の解説。「その威力に関しては目下調査中であるが、軽視を許されぬものがある(略)敵がこの非人道なる行為を敢えてする裏には戦争遂行上の焦躁を見逃すわけにはいかない、かくのごとき非人道なる残忍性を敢えてした敵は最早再び正義人道を口にするを得ない筈である(略)今次の敵攻撃に見ても少数機の来襲といへどもこれを過度に侮ることは危険である 敵は新型爆弾使用開始とともに各種の誇大なる宣伝をおこなひ、既にトルーマンのごときも新型爆弾使用に関する声明を発表しているが、これに迷うことなく各自はそれぞれの強い敵愾心をもって防空対策を強化せねばならぬ」(朝日新聞・東京) 「言論統制下の記者」(103P)

 「嗜虐性爆弾に堪え抜け」(見出し) 記事は不明(朝日新聞・東京・社会面) 「言論統制下の記者」(106P) 

 朝、東郷外相は鈴木首相と打ち合わせたうえで、宮中に参内し、このような新兵器が使用される以上、戦争継続は不可能であり、これを転機として戦争をおわらせるように裁断する以外に日本の道はないむねを内奏した。しかし、閣議も、最高戦争指導者会議も、原爆問題については開かれなかった。 「原爆三十年」(92P)

 一、新型爆弾に対して待避壕は極めて有効であるからこれを信用して出来るだけ頑丈に整備し利用すること
二、軍服程度の衣類を着用していれば火傷の心配は無い、防空頭巾および手袋を着用しておれば手や足を完全に火傷から保護することが出来る(以下略)(防空総本部) 「言論統制下の記者」(106P)

 ラジオ(NHK)が広島空襲を「落下傘を付けて空中で破裂させた。人道を無視した残虐な行為は許せぬ、今後は一機といえども軽視することなく待避せよ」と放送。 「広島 昭和二十年」(194P)
9日(木)  ソ連、対日参戦。モスクワ発同盟によれば「モロトフト外務人民委員は8日夜、佐藤大使に『ソ連の宣戦布告文』を手渡した」そうだ。 「広島 昭和二十年」(196P)

 午後5時の大本営発表のニュース。「ソ連、対日宣戦を布告」(NHKラジオ)「広島 昭和二十年」(196p)

 午後11時50分、宮中の防空壕で御前会議開く。10日、午前2時、ポツダム宣言受諾を決定。「原爆三十年](98p)

 朝日新聞、毎日新聞両紙の大阪本社・西部本社、及び島根新聞の代行印刷で、中国新聞が広島、山口県下の読者に配布。 「広島 昭和二十年」(197p)

 「新型爆弾攻撃に強靭な掩体と厚着 音より早いものに注意」「憤怒の血は沸る、敵の正体はまぎれなく悪魔であり鬼畜であったのだ」(中国新聞) 「年表ヒロシマ」(18P)

 敵米の空襲は果然、苛烈となった。・・・広島市に対し相当強力な新型爆弾を使用し、そのため同市は短時間の間に相当の被害を受けている」。しかし、全国民が図太い神経と強靭な生活力さえあれば戦争には勝てると主張。(中国新聞) 「年表ヒロシマ」(18P)

 8日の内務省による防空総本部の談話を発表。新型爆弾は空中で大爆発を発し、爆風の威力はは強大で非常な高熱を発する。しかし一機でも警戒し、壕内に退避すれば被害は最小限に抑えられる。(朝日、毎日、読売報知) 「年表ヒロシマ」(17P)

 広島に投下の「曳火高性能爆弾」を視察した中部軍の赤塚一雄参謀が大阪で語る(8日)。「広島の被害がやや大きかったのは敵の高性能爆弾を最初に受けたことと、警報解除直後であったため。高性能といってもその熱と爆風が今までの爆弾より強力と言うに過ぎない。われわれの想像外の物ではなく研究範囲内の所産」(毎日新聞・大阪)。(中国新聞は10日掲載)毎日新聞、中部軍管区司令部参謀の赤塚一雄中佐の広島視察談を掲載。 「敗戦日記」283p

 京都大学、大阪大学調査団が広島入り。
 10日(金)   早朝、政府、ポツダム宣言の条件付受諾を決定。中立国のスウェーデン、スイスを通じて連合国に申し入れ。「言論統制下の記者」(112p)

 政府はスイスを通じて、爆弾の無差別性、残虐性は国際法違反であると厳しく抗議した。「原爆三十年」(99p)

 「曳火爆弾攻撃にも我に不動の戦意あり。揺さぶり戦法に乗らず」(中国新聞)「年表ヒロシマ」(18P)

 中国新聞コラム「防長余韻」で広島市の新型爆弾について、「かれこれと詮索することは正しいことではない。なぜならそれが戦争だからである。県下(山口)に広島から罹災者が続々と入りつつある。各人は一部的な減少やデマに惑わされるなかれ」 「年表ヒロシマ」(19P)

 広島の原爆目撃者の談話掲載  (朝日新聞・東京)

 朝日新聞大阪本社版。「壕と防空服装を整備 新型爆弾へ防空総本部の注意」 「・・新型爆弾に対して防空総本部では9日対策(その2)として次の如き心得を発表した
一、新型爆弾に対して退避壕は極めて有効であるからこれを信用し出来るだけ頑丈に整備し、利用すること
二、軍服程度の衣類を着用していれば火傷の心配はない、防空頭巾および手袋を着用してをれば手や足を保護することが出来る
三、前述の退避壕を突嗟の場合に使用し得ない場合は地面に伏せるか堅牢建造物の陰を利用すること
四、絶対に屋内の防空壕を避けて屋外の防空壕に入ること 

 8日に発表した心得のほか以上のことを実施すれば新型爆弾をさほど惧れることはない、なほ爆弾に対する対策は次々に発表する」 「封印されたヒロシマ・ナガサキ」(42P)

 朝日新聞大阪本社版。広島から大阪に戻ってきた被爆体験者の証言を載せる。「ピカッ!物陰に 廣島の経験を活かせ」「・・自分の体験ではピカッと光った瞬間机の下だとか、物陰に身をひそめさえすればやけどをしないで済ませただろうし、壕蓋のある防空壕に入ってをれば大丈夫だとおもふ」 「封印されたヒロシマ・ナガサキ」(43P)

 「長崎市に新型爆弾 大型二機侵入・被害僅少」(4段見出し)[西部軍管区司令部発表(昭和二十年八月9日14時45分) 
一、八月9日午前11時頃敵大型二機は長崎市に侵入し、新型爆弾らしきものを使用せり 
二、詳細目下調査中なるも被害は比較的僅少なる見込」。(朝日新聞・西部、小倉) 「言論統制下の記者」(106p)

 「一機でも待避を 皮膚の露出は大禁物 西部軍管区司令部談」 去る6日広島市に新型爆弾を投下した敵は・・・・。
一、応急対策 (イ)待避壕、防空壕を整備せよ 無蓋壕は有蓋壕にすること、その強度は一寸丈夫な待避壕位で差支えない、個人用蛸壺に掩蓋をつけたものは一番安全であると現地の体験者もいっている (ロ)・・・ (ハ)・・・ (二)・・・ 
二、根本対策 以上述べた応急対策以外に最も確実な方法として都市の疎散と洞窟化とがある、この問題については都市外に移住するものの戦力化というような積極的方面のことも関連せしめて目下関係当局において具体策を取り急ぎ立案中である。(朝日新聞・西部、小倉)  「言論統制下の記者」(106p)

 「壕には必ず掩蓋 シャツ一枚では水腫 赤塚中部軍参謀談」(見出し)「敵米が六日広島に投下した・・・ 」 (朝日新聞・西部、小倉)  「言論統制下の記者」(106P)

 長崎新聞は西日本新聞の代行印刷で新聞発行を「継続」。「長崎市に新型爆弾、被害は僅少の見込み」(4段見出し)西部管区司令部、8月9日14時15分発表。「一、8月9日午前11時ごろ敵大型機二機は長崎市に侵入し大型爆弾らしきものを使用せり 二、詳細目下調査中なるも被害は比較的僅少なる見込み。第二面では「焔衝き怒りの生産、新型爆弾、闘う長崎市民」。被害の惨状は伝えていない。 「ヒロシマはどう記録されたか」(241P)

 8日に広島入りした理化学研究所の仁科芳雄博士らも同行した大本営調査団が、広島に投下されたのは「原子爆弾」であることを確認。「本爆弾の主体は普通爆薬又は焼夷剤を使用せるものに非ず、原子爆弾と認む」(広島県史) 「年表ヒロシマ」(18P)/「原爆三十年」(99p)

 「広島爆撃調査報告」が原子爆弾の開発を担当していた航空本部技術部の名で作られた。※以下、原文は漢字以外カタカナ
[判決]
本爆弾の主体は不通爆薬又は焼夷剤を使用せるものに非ず。原子爆弾なりと認む。
[人畜に対する被害]
被害の約80「パーセント」は火傷にして全身火傷(即死)は中心部付近にありし者に多し。 表皮むけ程度のものは径2キロ範囲、普通火傷は3キロ迄。軽傷程度のものは4キロ付近迄なるも 中心部より約4キロの地点たる飛行場兵員にして 上半身に重火傷を負いたる者数名あり。又閃光発生当時は別に痛痒を感せす。又は取立てて外傷を認めさるものと雖も一乃至二日後水泡を生し死亡せる者等あり  「原爆爆心地」(40P)

 ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンが「原子爆弾に関するトルーマンの発表は今次大戦を通じて最も重要なものであると同時に、戦争以上に人類史にとって運命的な発表」と報道  「年表ヒロシマ」(17P)
 11日(土)   毎日新聞大阪版、9日に撮影した(原爆の)写真2枚を掲載。「最も早く写真を掲載したものらしい」 「中国新聞」2009年2月10日

 新聞紙上に初めて「原子爆弾」の文字。トルーマン米大統領が米国民に対して行った演説のなかの「原子爆弾」という言葉を、外電によって報じたもの。「朝日新聞・東京版」 8月11日  「言論統制下の記者」(112p)

 レスリー・グローブス少将がファーレル准将とジェームズ・ニューマン准将を調査指揮官とする原爆効果調査団の結成を命令。この命令を受けて、マンハッタン計画の医学部長であったスタッフォード・ウォーレン大佐を団長とするマンハッタン工兵管区調査団が発足。調査団はウォーレン大佐を班長とする広島・長崎班と、ロバートファーマン少佐を班長とする東京班に分かれていた。 「封印されたヒロシマ・ナガサキ」(60P)

 朝日新聞大阪本社版。「帝国、米に厳重抗議 原子爆弾は毒ガス以上の残虐」  「封印されたヒロシマ・ナガサキ」(45P)
 12日(日)   朝日新聞が原爆に対する記者の見方を伝える。「一機でも馬鹿にせぬこと、必ず防空壕に待避すること、壕の補強、外出時にも防空常備薬(主として赤チン、三角巾など)を携行すること」 (朝日新聞・東京)   「言論統制下の記者」(110P)

 「一瞬にして広島変貌」の現地報告 (朝日新聞・東京) 「原爆三十年」(100p)

 外国ラジオ、「英首相は、米大統領が原子爆弾を投下したと声明」  「言論統制下の記者」(111p)

 「長崎に投下された落下傘付き曳光新型爆弾も備えあれば大丈夫」、「新爆弾は大体高度500メートルくらいまでふわふわと落下し突如大音響を伴って爆発する。落下傘を認めてから爆発まで1、2分の余裕がある。恐れず慌てず,『1億総洞窟生活』に徹することだ」(中国新聞) 「年表ヒロシマ」(19p) 
 13日(月)  情報局総裁の談話、「敵の非道に燃やせ悲憤」 (朝日新聞))  「原爆三十年」(100p)

 米サンフランシスコ・クロニクル紙「原子爆弾に対する非難の投書」数通を掲載。16日から18日にかけて反論相次ぐ。(広島県史) 「年表ヒロシマ」(20P) 
 14日(火)  朝日社説「敵の非道を撃つ」 「この原子爆弾は相当の威力を持つものに違いない。」「これに対しては報復の一途あるのみ」「全て新兵器は最初のうちは威力を発揮してしてもやがてその対策の樹立されるに及んで、その威力をとみに減殺される」者であるが、当局は早急に対策を立てて被害を最小限にし、民衆もこれに対応すべく、そのためには真相を一般に知らせよ、と論じ、又、新兵器の威力を過大視することによって敵の謀略に乗ぜられぬようにすべきだ、と論じている」(朝日新聞・東京) 「言論統制下の記者」(112p)
 
 中国新聞、「この戦争絶対に勝つ。精神戦にくじけるな。勝利の道は国民敢闘にある!」 「年表ヒロシマ」(20P)
 20日(月)  「ザ・タイムズ」に、バーナード・ショウの言葉。「原爆症は魔法のとき方を知らずに魔法をかけられたにひとしい」 「原爆犯罪」(48P)
 23日(木)   中国新聞が、初めて広島「被災」の写真を掲載。「瞬時にして焦土と化し煙突一本のみ残った広島市街の一部」 「年表ヒロシマ」(21P)
 朝日新聞、「原子爆弾被害地の惨を見る 全戸数の9割は倒壊 蚊一匹残さぬ残虐ぶり」 「原爆三十年」(100p)

 読売報知、「死傷19万超ゆ 広島・ナガサキ 原子爆弾の残虐」  「原爆三十年」(100p)
 
 毎日新聞、「世紀の恐怖・原子爆弾 残虐性更に暴露さる 傷も漸次悶死 今後七十年間は生物の棲息不能 廃墟両市 戦争記念物に」。記事、「その残虐性は全人類の名を以て これを徹底的に糾弾すべきことが痛感される」  「原爆三十年」(101p)

 「ニューヨーク・タイムズ」が、22日に日本の海外向けラジオ放送(東京放送)が伝えた内容を掲載。UP通信がサンフランシスコで傍受し配信したもの。「広島の死者6万人、負傷者10万人長崎の死者1万人、負傷者2万人。・・・大したやけどでもなく、当初は元気そうだった人も数日後には原因不明の病気で次々に死亡している。救援のため市内に入った人々にも、放射線の影響で白血球減少がみられる」。  「核と人間」(133P)
 24日(金)  毎日新聞、「この世の生地獄 殺傷に有効な時と場所を狙う 原子爆弾犠牲の大半は女子供」。「戦争はすでに終わった、しかし民族の上に加えられた残虐の歴史は永久に忘れることが出来ないものである」  「原爆三十年」(100p)
 25日(土)  朝日新聞、「広島に取り憑いた『悪霊』 2週間後には死亡者倍増」
「原爆三十年」(100p)

 読売報知、「広島では癒らぬ負傷 ウラニウム放射で復興も絶望か」
「原爆三十年」(100p)

 サンフランシスコ・クロニクル紙。「日本がわれわれの同情をかち取る意図のもとに、原子爆弾の被害を利用することもありえないことではない」「日本が連合軍の占領期間を短縮し、賠償責任を軽減する目的をもって、科学的に確立されていない原子爆弾の恐怖を強調する理論を利用し、アメリカの両親を傷つけるような宣伝をしているものと考えている」 「原爆三十年」(103p)
 29日(水)  中立国利益代表団が来広して、被爆状況を視察し、広島県知事を訪問そのとき視察の案内役を勤めた竹内喜三郎県庁人事課長に対して、代表団に加わっていた万国赤十字社マルセル・ジュノー博士が広島市内での「DDT散布」を申し出る。(その後)進駐軍飛行機で散布される。「広島原爆戦災誌・第1巻」 (563P)
 30日(金)  朝日新聞に太田洋子が書く。「海底のやうな光/原子爆弾の空襲に遭って」  「原爆 表現と検閲」(46P)

 マッカーサー元帥が厚木に到着。 「原爆 表現と検閲」(46P)

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 1945年(昭和20年)9月

1日(土)  朝日新聞。「広島・長崎両市へ/侍従ご差遣/畏し、戦災者に大御心」「増産に捧げた若き命/原子爆弾に斃れる7千名」。 「原爆 表現と検閲」(46P)
2日(日)  マンハッタン計画副責任者のトーマス・ファーレル准将が「マンハッタン管区調査団」30人を率いて来日。 「原爆 表現と検閲」(71P)
ミズーリ艦上で降伏文書に調印。
3日(月)  ロンドン、「デーリー・エクスプレス」のウィルフレッド・バーチェット記者が、広島に入る。同盟通信編集部長の中村敏記者と歌橋記者が出迎え。警察の車で市内の惨状を見る。中村記者はその記事を電報で、同盟通信本社に送った。 「原爆 表現と検閲」(38P)

 「ニューヨーク・タイムズ」のW・H・ローレンスら20人の記者が市内を取材。太宰博邦特高課長が戦災状況の概略を話したあと、広島の記者団と一問一答。特高課長が立会い。
 米・記者 「諸君は日本が戦争に勝つと思っていたか」
 日・記者 「そう信じさせられた」
 米 「特高警察が監視しているようだが、言論の自由はあるのか」
 日 「現在は自由になった。こちらから聞くが、広島の惨状を見てどう思うか」
 米 「われわれはヨーロッパの各戦線にも従軍したが、都市の被害では広島がもっとも大きい」
 日 「70年間不毛説があるが、それは事実だろうか」
 米 「日本の治安状況がよくなり、わが国の学者が来て調べたらはっきりするだろう」
 日 「原子爆弾を人道上どう思うか。また平和に役立つと思うか」
 米 「今は答えられない。諸君の体験を語ってくれ」
「広島 昭和二十年」(234p)

 広島県の主催により、広島東警察署で東京大学の都築正男教授らの原子爆弾症についての講演会を開く。 「封印されたヒロシマ・ナガサキ」(48P)

 日本政府が「原爆被害報告書」(編集室注:詳細不明、要調査)を提出。報告書は、放射能の影響について、4人の陸軍医グループによる報告「広島大惨状の報告(放射能に関して)」を採用し、「爆発直後人体に危害を引き起こすほどの放射線量は測定できなかった」と説明している。  「封印されたヒロシマ・ナガサキ」(50P)
4日(火)  原爆投下3日後の広島の被爆者を写した写真記事が朝日新聞大阪本社版に掲載された。「原子爆弾 正視に堪へぬこの残虐さ」 「廣島長崎を襲った原子爆弾の残虐さは、一報ごとに世界を驚かしている。これはその残虐性を如実に示す被災者の痛ましい姿、紙上に報ぜられる最初の写真である。①日赤病院でやけどの手当を受ける少年(両手の甲は真っ黒に焦げ皮が裂けている) ②ずらり並んだ負傷者たち ③無残な火傷を負った母子 ④熱風で衣類の型通りの火傷を負う 廣島市において宮武特派員撮影」
 同日の朝日新聞東京版にはこの記事は掲載されず、その前後の時期にも掲載されていない。  「封印されたヒロシマ・ナガサキ」(48P)
 5日(水)   マッカーサー元帥が「特派員が占領の急先鋒となるのは米軍の方針ではない」として外国人記者による自由な取材を禁止。報道関係者は東京を退去して横浜で待機、日本の報道機関が渡す翻訳に基づいて報道しなけらばならなくなった。海外向けのニュースは占領軍によって管理された上で、日本の同盟通信社が発信した。 「封印されたヒロシマ・ナガサキ」(52P)

 オーストラリアの記者ウィルフレッド・バーチェットの配信記事がロンドンの「デーリー・エクスプレス」に掲載される。タイトルは、「私は世界への警告としてこれを書く」。「原爆病(The Atomic Plague) ーー 広島では、最初の原子爆弾が都市を破壊し世界を驚かせた30日後も、『原爆病』としか言いようのない未知の理由によって、いまだに不可解かつ悲惨にも亡くなり続けている」 「広島 TODAY」(20P) / 「封印されたヒロシマ・ナガサキ」(46P)

 「ニューヨーク・タイムズ」のウィリアム・H・ローレンス記者、原爆に起因する死者がいまだに出現している事実を報道した。「倒壊し瓦礫と化した広島―そこは8月6日、世界で初めて、宇宙そのものの力を利用した秘密兵器が破壊の動因として使用された―では、原子爆弾はいまだに日に100人の割合で殺している。私はこの歴史的爆撃の場所に着いた最初の外国人の数人の中にいた」。  「封印されたヒロシマ・ナガサキ」(47P)
 6日(木)  マンハッタン計画副責任者のトーマス・ファーレル准将が、東京・帝国ホテルでの連合国の海外特派員記者会見で「広島・長崎では、死ぬべきものは死んでしまい、9月上旬現在において、原爆放射能のために苦しんでいる者は皆無だ」と声明。前日の2紙の記事を否定するための会見だった。  「封印されたヒロシマ・ナガサキ」(49P)/「原爆犯罪」(68P)
 7日(金)  朝日新聞。「生存者の憎悪の眼/夏の太陽の下・廃墟に漂う死臭/米人記者のみた広島」。アメリカ人記者のヒロシマからのレポートが海外で反響を呼んでいることを伝える記事。 「原爆 表現と検閲」(46P)
 8日(土)  朝日新聞。「十数個の太陽出現/原子爆弾・実験の写真」。 「原爆 表現と検閲」(46P)

 ファーレル准将(マンハッタン管区調査団)らが調査のため、都築正男博士とともに広島に飛行機で移動。ファーレルは8日と9日広島で、13日と14日は長崎で調査。広島・長崎調査班の班長はスタッフォード・ウォーレン大佐。ファーレルに同行したニューマン准将は、10日東京に戻り、ウォーレン大佐ら一行は調査を続行した。  「封印されたヒロシマ・ナガサキ」(52P)

 一行は、岩国到着後、バスで中国軍管区司令部(跡)を訪れたあと、宮島に宿泊。  「ドキュメント 核と人間」(135P)

 連合国側専門家視察団一行ファーレル代将ほか12人が、9月8日朝横浜発空路で同日正午前に山口県岩国飛行場に到着、午後3時バスにより佐伯郡五日市の中国軍管区司令部を訪問し、日本側の軍・官と打ち合わせをおこない、一応、厳島岩惣旅館に引き上げて一泊、9日早朝、数台の自動車・バスに分乗し、雨降りの焦土広島に乗り込み、原子爆弾の放射の測量、一般被害、被爆患者の状態を調査し、午後1時、岩国に引き返し、さらに調査研究のため4人を残し、ファーレル代将など8人は空路横浜へ引き返す。  「広島原爆戦災誌・第1巻」 (563P)

 「アメリカはファーレル准将らを広島入りさせるため、ジュノー博士の広島救援の要請を利用した事実がある。・・・サムス准将らはジュノー博士の要請にこたえ、医薬品などを6機の飛行機に積み込み、ファーレル准将らを、それらの医薬品の配給員に姿を変えさせて、広島地域に入れることを考えついたのである。」(大佐古一郎「GHQと日本政府は広島に何をしたか」 ―「広島県医師会報」1982年1月号より)  「原爆犯罪」(38P)
 9日(日)  米国調査団は、東大都築教授らを伴い広島・第二総軍司令部で、被爆後入市した「キッカワ」という軍人から体験を聞く。オーターソン大佐は日記に「救援に入った軍人の多くは、異常な疲労を感じ、後に皮膚に発疹ができ、頭痛に襲われている。・・・彼らは放射線の影響を受けたのだろうか?」。調査団は、このあと広島第一陸軍病院宇品分院で被爆者を観察、団員の物理学者らはガイガー・カウンターで残留放射能を測定。  「ドキュメント 核と人間」(135P)

 マッカーサー司令官、言論と新聞に対する根本方針など、日本管理方式について声明。その内容は「日本人は連合国との対等観を捨てなくては」ならぬ。言論、新聞、宗教および集会の自由は占領軍の軍事的安全を維持するために制限される。事実に反したり治安を害する事項を掲載しないこと。日本の将来に関する論議は差支えないが、世界の平和愛好国の一員として再出発しようとする国家の努力に悪影響を及ぼすような論議を掲載しないこと。公表しない連合国軍隊の動静や連合国に対する虚偽の批判または破壊的批判や流言を掲載しないこと」。 「広島 昭和二十年」(228P)

 マンハッタン管区調査団の一部が長崎入り。 「原爆 表現と検閲」(68P)
 10日(月)  読売報知、「原子爆弾1か月後の現地」と題し、「被爆者続々と死亡、絶えぬ街の火葬、聖像、首がちぎれ飛ぶ』の記事。 「原爆犯罪」(76P)

 在横浜のSCAP(連合国軍最高司令官総司令部)が「日本帝国政府への覚書」(SCAPIN16)を発表。
1、日本帝国政府は、新聞・ラジオ・その他の出版物により、真実をそこない、公共の安寧を妨げるニュースの流布を防止するため、必要な命令を出さねばならない。
2、連合国最高司令官は、言論の自由についての制限を、最小限度とすることを布告した。世界の平和愛好国の中で、その一員として敗北から立ち上がろうとする、日本の努力に有害でない限り、日本の将来についての論議は、連合国によって奨励される。
3、公表されない連合国軍隊の動静および、連合国軍に対する虚偽の批判や破壊的批判、風聞は禁止される。
4、当分の間、ラジオ放送はニュースと音楽的・娯楽的性質のものを主とし、ニュース・解説・告知放送は、東京からの放送に限る。
5、最高司令官は、真実をそこない、公安を妨げる情報を公表する出版物や、放送局に対し、一時停止を命じる。
 11日(火)  朝日新聞が、米国原爆災害調査団が9日、広島で発表した見解を掲載。「広島の被害の甚大であることは、空中写真により大体解っていたが、広島に来て実地に検分して、被害が甚大で言語に絶するものであることを知った。今後かかる悲惨なものは使用すべきでないと考える。現在、広島市では医療品等、相当困っているらしいので何とか救済の方法を講じたい」。 「原爆犯罪」 (36P)

 朝日新聞、「原子爆弾は想像以上」「広島の惨状、米調査団も驚く」と題し、ファーレル准将の「今後かかる悲惨なものは使用すべきでない」という談話を紹介。また、「米兵は何を考えている」と題して米兵と記者との対談記事。「 米兵  わが方の原子爆弾使用に就いて日本の国民はどんな感情を抱いているか。記者  怨んでいる。当時の広島市の惨状を目撃して僕にはよく分かる。米兵 そうだろうな、原子爆弾では米本国でも囂囂(ごうごう)たる非難の声だ。まだ残っていたらみな太平洋の真ん中へ捨ててこいといっている。発明者の罪は死に値すると思う。国民は何も知らなかったのだ。」  「原爆犯罪」(76P)
 12日(水)   朝日新聞社説。「原子爆弾とその惨状との取扱に到っては、最初から最後まで科学的でなければならないはずである。・・(中略)・・しかし、かかる前代未聞の科学的災厄とその調査に時の経過は禁物である。遺憾ながらいづれも大切な時機を失したことは疑え(ヘ)ない。それにしてもなお為さざるに勝るのである。今からでも科学者、文学者、軍人、宗教家などを含む国際的調査団を組織して十分科学的な調査報告の中外に示されんことを切望する」。 「原爆三十年」(105p)

 朝日新聞。米兵「わが方の原子爆弾使用について日本の国民はどんな感情を抱いているか」 記者「怨んでいる。当時の広島市の惨状を目撃したので僕にはよく分かる」 米兵「そうだろうな。原子爆弾では米本国もごうごうたる非難の声だ。まだ残っていたらみな太平洋の真ん中へ捨てて濃いといっている。発明者の罪は死に値すると思う。パール・ハーバー(真珠湾)の損害でも発表になったのは一年半も過ぎてからだったんだからね」。「原爆三十年」(102P)
 ※この記事は、「原爆犯罪」では11日掲載、とされている。

 ファーレル准将が東京で記者会見。ウィリアム・L・ローレンス記者は「秘密兵器の爆発力はその発明者が予見するよりも大きかった都市ながら、彼(ファーレル)は、それが廃墟となった街に残存する危険な放射能を生み出したり、爆発時に毒ガスを作りだすことを、断固として否定した」と、「ニューヨーク・タイムズ」(9月13日)に書く。 「封印されたヒロシマ・ナガサキ」(52P)
 ※このローレンス記者は、9月5日の「ニューヨーク・タイムズ」に記事を書いたウィリアム・H・ローレンス記者とは別人。

 ファーレル准将がマンハッタン計画の責任者レスリー・グローブス少将に報告。「昨日広島で行われた日本側公式筋との会合において、東京帝国大学放射線医学者の都築博士から原爆が爆発したときに毒ガスが放出されたのではないかとの質問が出された。このような作り話を直ちに叩き潰すために、本官は都築博士に毒ガスは放出されなかったと正式に伝えた。本官が当地で権威を以ってこの情報を公表し、また貴殿が合衆国において公表することは、極めて望ましいと思われる」。 「封印されたヒロシマ・ナガサキ」(52P)
 13日(木)  ファーレル准将が長崎を訪問。14日まで調査。 「封印されたヒロシマ・ナガサキ」(52P)

 朝日新聞大阪版、「原子爆弾、広島市に炸裂直後の状況」のタイトルできのこ雲の写真。 「初めての投下当日の写真」 「中国新聞」 2009年2月10日
 14日(金)  トルーマン米大統領、米国の報道関係者に対し「最高度の国家安全保障上の利益において、編集者や放送者は陸軍省に最初に相談することなしに、(原文注―公式発表を超えた)情報の発表を保留するよう要請される」と、原爆報道の自制を促した。 「封印されたヒロシマ・ナガサキ」(54P)

 同盟通信社に午後5時29分、業務停止命令。(15日正午に解除) 「原爆 表現と検閲」(47P)

 日時は不明だが、同盟通信は上記業務停止命令以前に次の情報を報道した。「戦争の終結は、連合国の軍事的優越性によってではなく、むしろ天皇の『大御心』によってもたらされた。したがって、占領軍は、単なる日本国の『客』にしかすぎない。」「1、日本は、原子爆弾さえなければ、戦争に勝っただろう。原子爆弾はあまりにも恐ろしい武器で、野蛮人だけが使える。 2、日本は、連合国と対等の立場で交渉できる。 3、米国および連合国軍部隊は残虐行為を行っている。 4、ソ連および他の連合国は、米国の支配に反対し、米国といがみ合っている。 5占領軍の到着以来、犯罪が増加している。(西鋭夫『マッカーサーの犯罪』上、日本工業新聞社、1983年、140ページ」 「原爆犯罪」(77P)
 15日(土)  朝日新聞社主の鳩山一郎が朝日新聞に「『正義は力なり』を標榜する米国である以上、原子爆弾の使用や無辜の国民殺傷が病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪であることを否むことはできないであろう」と書き、また、日本の戦後復興施策の基本は「極力米人をして罹災地の惨状を視察せしめ、自らの行為に対する報償の念と復興の責任とを自覚
せしむること」にあると書く。   「封印されたヒロシマ・ナガサキ」(54P)
 16日(日)  朝日新聞、「太平洋米軍総司令部が発表した報告書、「比島戦における日本軍の典型的残虐行為」を掲載。また、広島・海田市町から写した「原子爆弾炸裂の直後」の写真、「原子爆弾委員会/学研で我が科学陣を網羅」の記事。 「原爆 表現と検閲」(50、51P)

 日本映画社の原爆記録映画撮影隊の先遣隊が長崎で撮影開始。 「年表ヒロシマ」(25P)
 17日(月)  スタッフォード・ウォーレン大佐ら調査団が長崎で調査。10月6日まで。  「封印されたヒロシマ・ナガサキ」(61P)

 朝日新聞、「対等感を捨てよ/マ元帥 言論統制の具体的方針」を掲載。また、前日の米軍報告書の記事への読者の反響として、「求めたい軍の釈明/『比島の暴行』発表へ国民の声」を載せ、「ほとんど全部の日本人が異口同音にいってゐる事は、かかる暴虐は信じられないといふ言葉である」の記事。 「原爆 表現と検閲」(51P)
 18日(火)  朝日新聞に停止命令、「SCAPIN34」が出され、東京本社に2日間(18日午後4時から20日午後4時)の停止。連絡不十分のため、西部本社も2日間休刊したという。「朝日新聞社史」は、停止の原因として、15日の鳩山一郎社主の記事、17日の「比島の暴行」の読者の反響記事などあげている。 「原爆 表現と検閲」(50P)
 19日(水)  朝日新聞、停止命令発効。「封印されたヒロシマ・ナガサキ」(54P)
 ニッポンタイムス(東京)に「SCAPIN37」が出され、24時間(19日午後3時30分から20日午後3時30分)の停止。 「原爆 表現と検閲」(50P)

 GHQが「プレスコード」(SCAPIN33、日本に与える新聞遵則、Press Code for Japan )を指令。「公安を害する事項」「占領軍に対する破壊的な批判、不信や怨念を招く事項」などの掲載を禁止。   「封印されたヒロシマ・ナガサキ」(54P)

 連合国総司令部が「原爆使用と病院船攻撃は国際報違反であることは否定できない」の記事を掲載した朝日新聞を2日間の発行停止。ニューヨーク・タイムズが伝える。(広島県史)  「年表ヒロシマ」(25P)
 20日(木)   原爆記事が激減。朝日(新聞)の場合、原爆の記事がないのは、8月22日、26日、9月13日のみで、一日平均の記事数は2.7であった。プレスコード以降は3日に一つの割合。 「原爆三十年」(104P)

 中国新聞、「コンニャク版刷り」の“壁新聞”「特報第1号」を発行。 「もう一つのヒロシマ」(270P)
 21日(金)  CCD(民間検閲所)、「米軍太平洋陸軍総司令部/参謀次長 民間検閲部」の頭書きで「日本出版法」(Code for Japanese Press)を発令。10ヵ条の本文は「SCAPIN33」とほぼ同じもの。  「原爆 表現と検閲」(52P)

 停止が解けた朝日新聞、1面に社告。「マックアーサー司令部指示の新聞記事取締り方針第1項『真実に反しては公安を害すべき事項を掲載せざること』に違反したものありとの理由によって」と、停止を受けたことを報じる。 「原爆 表現と検閲」(52P) 
 22日(土)  「ラジオ・コード(日本放送法)」(SCAPIN43)発令。内容は「プレス・コード」とほぼ同じ。 「原爆 表現と検閲」(56P)
 23日(日)  朝日新聞、「プレス・コードが21日、内閣情報局及び内務省から全国地方長官に通達された」と報じ、「米軍総司令部渉外局21日発表」の全文を掲載。文末の署名は「最高司令官代理/ハロルド・フェア陸軍中佐/参謀副官補佐官」、前文では「自由な新聞の持つ責任とその意味を日本の新聞に教へ込む」目的、「日本において印刷されるあらゆる刊行物に適用される」方針を述べている。  「原爆 表現と検閲」(52P)
 24日(月)  「政府の報道機関の分離」(「SCAPIN51」)発令。同盟通信社古野社長がフーバー大佐を訪ね、自発的解散を告げる。(同盟通信は10月31日解散、11月1日、共同通信社と時事通信社に分かれた。   「原爆 表現と検閲」(56P)
 25日(火)  UP通信ヒュー・ベイリー社長とニューヨーク・タイムズの東京特派員フランク・ルイス・クルックホーン記者が、宮内省で天皇と会見。初の外国人記者との会見。クルックホーン記者が「ルーズベルト大統領の発言を借りるならば、だまし討ち(真珠湾攻撃)を行うために宣戦の大詔を使用した結果、米国の参戦を見たのだが、それは陛下の意思であったのか」と聞き、天皇が「宣戦の大詔は東条(東条英機元首相)のごとくに、これを使用することはその意図ではなかった」と答える。(「ニューヨークタイムズ」より)  「もう一つのヒロシマ」(280P)
 27日(木)  ファーレル准将が、レスリー・グローブス少将に覚書。「日本の公式筋と新聞は、放射能の残留効果に関して誤った発言をした。ある指導的な日本の科学者(都築博士)は、爆発のときに有毒ガスが発せられたのではないかと思うと述べた。私はガスが放出されたという件については公式に否定しておいた」。また、書簡で「日本とアメリカで報道された話に、疎開(している人びと)を応援するため(被爆)地域に入った人々が、死傷したというのがある。真相は、爆発以前に発せられていた疎開命令を実行するために広島に入っていた疎開要員が爆弾の爆発に巻き込まれて多くの死傷者が出たということである」と伝える。  「封印されたヒロシマ・ナガサキ」(53P、60P)

 CCDが「出版と言論の自由への追加措置」(SCAPIN66)を発令。平時および戦時の、出版と言論の自由を制限した法律(新聞紙法、国家総動員法等)の即時撤廃を命じる。(実際には29日だが、この日に遡って発令)  「原爆 表現と検閲」(57P)

 天皇がアメリカ大使館のマッカーサーを訪問。
 28日(金)  東京新聞夕刊がモーニング姿で直立した天皇と開襟シャツのマッカーサーが並んだ写真を掲載。翌29日付けの各紙朝刊も掲載。内務省が「安寧を紊乱するもの」として各紙を差し押さえたが、「SCAPIN66」の適用により、内務省は「至急責任者に還付」を決定。 「原爆 表現と検閲」(56、57P)
 29日(土)  各紙朝刊、9月27日撮影の天皇とマッカーサーが並ぶ写真を掲載。内務省が「安寧を紊乱するもの」として28日から29日にかけて差し押さえた。これに対してCCDは『出版と言論の自由への追加措置」(SCAPIN66)を27日付で発し、平時および戦時の、出版と言論の自由を制限した法律(新聞紙法、国家総動員法等12件を列記して即時撤廃を命じ、28日~29日の新聞にも適用されるとした。内務省はやむなく、新聞を「至急責任者に還付」すると決定。 「原爆 表現と検閲」(56、57P)

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 1945年(昭和20年)10月

1日(月)  東大、都築正男博士が「「所謂『原子爆弾症」に就て、特に医学の立場からの対策」を、『総合医学』2巻14号に発表。(近代日本総合年表)「年表ヒロシマ」(25P)
4日(木)  マサチューセッツ工科大学学長のカール・コンプトン博士がトルーマン大統領に報告書。「日本人科学者とファーレル准将の下でわれわれアメリカ人グループが行った調査では、これらの地域に原爆投下後の影響である危険な放射性燃焼(Burning)はないという点で完全に合意している。少数の人々が爆発の間につくられた放射線によっていまだに亡くなっている一方で、爆発後にその地域に行くことによって被害を受けた人についての確かな事例は一切ない。  「封印されたヒロシマ・ナガサキ」(63P)
6日(土)  東京の新聞5紙、総司令部ピータース大尉の通達を受け、事前検閲(5紙に対する)が10月8日(9日付)から始まると報じる。  「原爆 表現と検閲」(55P)
 11日(木)  高野源進広島県知事、着任から4ヵ月で警視総監に転出。児玉九一知事が就任。
12日(金)  A・オターソン大佐を代表とする「日本における原子爆弾の影響調査のための合同委員会」が発足。日本側の医師90人が加わる。  「原爆犯罪」(49P) ※「封印されたヒロシマ・ナガサキ」では、「マンハッタン工兵管区、陸軍、海軍」による「米軍合同調査団」としている。(67P)

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1946年(昭和21年)7月

6日(土)  中国新聞が発行していた夕刊ひろしまに、「世紀の記録写真」として原爆投下当日の写真3枚掲載。 「中国新聞」2009年2月10日