伊藤明彦のヒロシマ・ナガサキ



2008年3月から4月にかけて、私たちにお届け頂いた、伊藤さんの遺言とも言えるエッセイを引き続き掲載させていただきます。

伊藤明彦氏について
http://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤明彦
伊藤明彦氏は2009年3月3日、逝去されました。

伊藤さんの仲間の皆さんがつくる「被爆者の声を記録する会」のホームページ、「被爆者の声
伊藤明彦 ヒロ・ナガ.com アーカイブスより


■2008.3.19
■2008.3.19

■2008.3.19

いつも「目くじら」を、「下司のかんぐり」を

 昨年自費出版した本の一章で、広島平和記念資料館の正面ロビーに、ローマ法王の「崇高なお言葉」を称える碑が建っていること、長崎の平和公園の一角に「オリンポスの灯」の石碑が建っていることに疑念を呈しました。

 「そこまで目くじらを立てなくても」とは、某全国紙、某支局記者の若い電話の声。

 権力、権威のすることをいつも見張り、「目くじらを立てる」のがジャーナリストの職務では。そのような記者は早めに銀行員にでも転職された方が良いのでは。

 権力、権威に「下司のかんぐり」をするのもジャーナリストの職務では。それがジャーナリズムの原点では。

 「あれだけの大金をどうやって形成しているのだろう」という、あるジャーナリストの「下司のかんぐり」が、「金脈政権」崩壊の端緒を作りました。(伊藤明彦)


■2008.3.18

「伝令であります」

 当時16歳。少年航空整備兵。宮島へ必勝祈願に行く途中、距離・爆心地から0.7キロの電車の中で被爆。避難する途中、憲兵から「おい、そこの少年兵」と呼び止められ、命令を授けられそうになる。

 とっさの機転で挙手の礼をして「伝令であります」と申告する。軍と軍の連絡をとる伝令の任務は当時至上命令で、「ならば行け」と解放される。

 人類に自滅の時が迫っていることを告げる、「時代の伝令」被爆者。私たちはその言葉に必要な注意を払っているでしょうか。「ならば行け」と言っているでしょうか。(伊藤明彦)


■2008.3.17
空撮された「地獄の映像」

 被爆者のお話をうかがうと、原爆投下当日、アメリカの飛行機がひんぴんと広島、長崎の上空に現れたことが判ります。特に長崎で著しく、多数の戦闘機が低空で来襲し、逃げ惑う人々を機銃掃射しました。「飛行士のグーグルが見えた」、「マフラーがなびいていた」、「窪んだ目が見えた」などの証言多数です。「写真を撮っているように見えた」と言う証言も。

 カラーで空撮した動画があるに違いない。厳重に秘匿されているに違いない。わたくしのほとんど確信です。沖縄戦をカラーで撮影した動画が知られています。広島、長崎に限って撮らなかったと考えるのは不自然なのです。

 秘匿されているのは、それがあまりに凄惨で、有力な友好国となった日本人の感情を傷つけるだけでなく、「もうこんな兵器を使うな」と言う声が国の内外におこることは、核兵器の脅しによって、ヨーロッパ正面のソ連・東欧の地上軍の西進を抑止することを根幹としていた、冷戦時代のアメリカの国家安全保障政策を揺るがしかねず、「デンジャーだ」と認識されていたからに違いないと考えています。47年2月、雑誌「ハーパーズ」に発表されたスチムソンの論文(いまだに「原爆投下正当論」の根拠になっている)が異様な危機感に溢れていたのは、ハーシーの「ヒロシマ」によって、原爆投下への疑念が国の内外にあらわれてきていたからです。

 厳重に秘匿されている「空撮地獄映像」を見つけ出し、ピュリッツァー賞を狙う野心的な若きジャーナリストはおられないものでしょうか。

 ところで街角、コンビニ、店頭、あらゆるところに溢れている監視カメラ、誰もが持っているデジタルのビデオ・カメラ、グーグルの地上撮影映像、グーグルの「ストリート・ビュー」が、「カラー音声つきハイビジョン地獄映像」撮影の潜在的可能性によって、また、その映像を世界中の茶の間、ダイニングルームへ運んでゆくインターネット技術の誕生によって、核兵器再使用をすでに抑止し始めていることにお気づきですか? 世界中のブロガーの存在が、核兵器再使用をすでに抑止し始めていることにお気づきですか?

 情報技術革命にともなう「抑止力」は一日一日大きくなりつつあり、核兵器を「もう使えない兵器」にしつつあるのではないでしょうか。(伊藤明彦)


■2008.3.17
原爆投下の「訪問順路」

 1945年8月6日。「リトル・ボーイ」投下の第一目標都市は広島、第二目標都市小倉、第三目標都市長崎。8月9日。「ファットマン」投下の第一目標小倉、第二目標長崎。

 お判りでしょうか。「訪問順路」は北から南へ伸びていないと、実戦的、実践的でないのです。第一目標に投下できなかった重さ4、5トンもある「特殊爆弾」を、より北に、つまりより基地から遠くにある第二目標に運んでゆくことは、機長以下の乗組員にとってはきわめて不安で、困難だったに違いない。そういう命令は出せなかったでしょう。スパーツが運んできた「投下命令書」に新潟があることを知ったグアムの現地軍人は「ワシントンの連中はなにも判っていない」と、舌打ちしたに違いない。新潟は他の目標都市から遠く北に離れていて、第一目標にも第二目標にも組み込みようがなかったに違いない。その舌打ちの音が聞こえるような気がします。

 京都を最終的にはずすことに決めたスチムソンが「代わりにどこが良いだろうか」とアーノルドに相談したのは(スチムソンの日記を読むと)おそらく7月22日。アーノルドは「長崎が良かろう」と返事をしたことになっていますが、ポツタムにいた元帥である彼が、なぜ長崎の名前を、特にそれが「未空襲」の都市であったことを知っていたのでしょうか。彼は即答したのではなく、グアムの現地軍人に諮問したに違いない。相手は日本空襲の総指揮をとっていたルメイ以外には考えられない。ルメイは彼のスタッフ(おそらく佐官クラス)に「どこがいいと思うかね?」と相談したに違いない。スタッフが「長崎が適当」と答申したのは、そこがなぜか(未解明の理由によって)「未空襲」の都市であったことに加え、「訪問順路」の南に位置していたからに違いない。

 以上のわたくしの推定を、アメリカのどこかの資料館に眠っている未発見の資料によって、高齢ながらアメリカのどこかの田舎で引退生活を送っているかも知れない(!)そのスタッフへのインタビューによって確かめスクープしてピュリッツァー賞を狙う、野心的な若いジャーナリストはおられないものでしょうか。(伊藤明彦)


■2008.3.17

「自虐史観」批判論への反批判が陥りやすい陥穽

 かつての日本の対外支配、侵略行為への自省・検討を、「自虐史観」だとする批判に、反批判することは大切と考えます。

 しかしその自省・検討を、米国が45年8月に行った原子爆弾の対日使用に結びつけて考えると、うっかり、陥穽に陥ることになります。

 広島が「軍都」で、明治以来の東アジア侵略の拠点であったことも、長崎が「軍需都市」で、民間最大の軍艦建造工場を持っていたことも、米国の目標都市選定の基準とは、無関係です。関係づけて考えると、京都が最初から最終段階まで、AAクラスの目標であったことの説明がつかなくなります。なぜ京都は一貫してトップの候補地だったのか。

 米国政府の当局者には別の目的があったからこそ、京都をはずし、二つの都市に原子爆弾を投下しました。照準点は京都を含む三都市とも、軍事施設ではなく、人口密集地の真ん中でした。

 「ソ連への威迫」、「実験」、「議会・納税者への言いわけ」が対日使用の目的で、最後の目的の正体は、大統領、国務長官としての「保身」でした。(伊藤明彦)


■2008.3.15

核兵器の「子ども殺し性」

 21世紀初頭という現在まで生きのびている被爆者の絶対多数は、少年少女のころ、子ども、赤ごのころ、殺されかけ、重軽傷をおわされ、父母・兄姉・弟妹、同級生、幼ななじみを失う悲しみにくれさせられ、身体と心に重い傷を負わされつつ、青春時代、少年少女時代を送らされてきた人々です。

 06年秋よりこれまでに、体験をビデオ収録させていただいた被爆者225人。被爆時20歳以上であった人40人(17.8%)、ティーンエイジャーであった人163人(72.4%)、9歳以下22人(9.7%)。

 19歳以下であった人は全体の82.1%を占めます。4歳以下であった人にふつうお話をお願いすることはありませんので、この比率は、実際にはもっと高いものと考えられます。

 1970年代、被爆者をお訪ねしていたころ気がつかなかった核兵器の「子ども殺し性」が、ここに来て、はっきり判ってきたような気がします。

 核兵器が再度使われれば、この「子ども殺し性」は、容赦なく再現されるでしょう。

 拙作です。ランダムに。



○剥げた皮膚手からぶら下げぞろぞろと半裸全裸の少年のむれ

○ハリネズミのようでありたり工場のハリ突き立った女学生たち

○「そも汝(なれ)は千代子ならずや」めしいの子「オネーチャーン」とてすがりつききぬ

○「眠ったら死ぬる眠りそ」ゆさぶれどモンペ掴みて眠りはじめぬ

○母体より脱出したる未熟児の母の胸にてオギャアオギャアと

○兵隊の顔ゆがみけり「赤ちゃんが生まれそうなのタスケテーヘイタイサーン」

○「水くれ」と足つかみたる少年よ泣きつつ詫びて通り過ぎたり

○あふれ出るはらわた抑え泣きいたり少年としごろ五、六歳なる

○ザクロよと見えし口よりい出くるはわが弟の声にあらずや

○いざり逃げいざり逃げては振り返る吾子(あこ)は火中に泣き叫びいつ

○火の中に置き去りて来し末の子のこの世で最期に見るしはわが顔

○オカァチャーンココヨイタイヨ言う声のやがてアツイヨアツイヨーアツイヨー

○屈強のおのこ上より投じたり下におりしは老幼女嬰

○クルチイヨカナチイヨとも言えずして次女は逝きたり享年二歳

○ンマンマとブーブーとしか言えぬ子を殺してたれにいかな益ある

○泣く声でおなかすいたは判るなりわが乳くびはともに黒こげ

○わが胸に添い眠りいしこの幼女逝くときなどてわれ起こさざる

○弟はめしいの子どもでありしなり朝(あした)い出ゆき今に帰らず

○その刹那そののちいかがしたらむと思えばいとど胸痛むなり

○弟の死にし願うはただひとつそが即死にてありしことのみ

○「母さんはまだ生きている焼かないで」すがりつく子をどけてくべたり

○「ちょっと待てこの子はいまだ生きている目玉が動く」兵士のけたり

○「ひきとった死体ちがっていました」と翌日親が取替えに来つ

○疎開先より帰り来し男の子自家焼け跡に立ち尽くすのみ

○父母も姉弟も妹もいなくなりたりいずべに果てつ

○拾い食い盗み食いつつ生きて来し「原爆孤児」と呼ばれたる日々

○「ピカ感染(うつ)るキンカラ坊主ツルッ禿げピカにおうた子遊びにくるな」

○子とリュック背負いまちがえ子の方を捨てて来たりと泣き叫ぶ母

○なきがらの胸ポケットの時間割「代数」「古文」受けしことなく

○級友は全滅われは生き残り「そこの生き残り」と呼ばれたりけり

○「生き残り」「死に残り」よと呼ばれつつ毎日行きて友を掘りたり

○級友は全滅われは生き残り亡友(とも)の母の目刺すがにありし

○級友は全滅われは生き残り戦後生きるは苦しかりけり

○「客が減る来てくださるな」銭湯で言われケロイド洗う行水

○「サルのよう」「キツネのよう」と人ら言う鏡を見しは十八の秋



 弱き者へふりそそぐ涙、虐げられた弱き者へふるわれる暴虐な力への怒りを持つことを、職業倫理の根幹とするジャーナリストが、核兵器再使用阻止の呼びかけに立ち上がらないことがありえましょうか。(伊藤明彦)

■2008.3.14

「人情」は万人共通

1973年、広島でお会いした韓国婦人被爆者から、こんなお話を聞きました。

 1.5キロで被爆、身体前面に最重度の火傷。三児死去、二児行方不明。援護策などまったくなかった時代、病苦と貧困の底にあえぐ。ある冬、中国新聞からの訪問者。購読の勧誘だと思って断ろうとしたら、取材と判る。

 「うちは火の気がなくとても寒い。今度、近くの教会に来てください。そこでお話します」。 再訪した記者は思いがけず、練炭を持ってきて下さった。その心が嬉しくて嬉しくて、練炭を使うのがもったいなくて、いよいよ凍えそうになる時まで使いませんでした」と。

 「原爆記者」と呼ばれたおひとり。のちに招かれ、平和文化センターの理事長を務められました。故人です。

 その韓国婦人が、朝鮮人参の粉末を「風邪の薬に」と下さったのです。嬉しくて嬉しくて、使うのがもったいなくて、ほんとうに寝込む時まで、使いませんでした。

 「人情」は万人共通です。(伊藤明彦)


■2008.3.14

被爆者について書く時は まず被爆者のところへ

 被爆者について書く時、まず、学者やお役人のところへ行くのは、ジャーナリズムの原則として如何なものでしょうか。学者やお役人が、ほんとうに被爆者のことをご存知だとは限らないのです。ときどき、そういう新聞記事を見かけます。

 また被爆者団体の幹部のところへ行くのも、問題によっては適切でないことがあります。被爆者団体の幹部が、被爆者の体験について、すべてをご存知とは限りませんし、運動に近づいてこない被爆者、むしろそれを忌避している被爆者のことは、良くご存知でありません。

 尊敬する、かつて「原爆記者」と呼ばれた、原爆報道の先輩、大先輩たちは、被爆者について書く時は、まず被爆者のところへ行っておられたと思います。日頃実によく、被爆者を「まわって」居られましたから。

 取材対象のところへは、日頃から足しげく「まわる」。さしあたり、書けそうなことがなくても、あっても。これがジャーナリズムの原点、基本では。(伊藤明彦)

■2008.3.14
「被爆証言」可能年齢の上限と下限

 昨年から今年にかけて、被爆体験を克明に記憶し語った方。

当時・陸軍軍医中尉。     埼玉県在住。92歳。
当時・陸軍上等兵。      神奈川県在住。91歳。
当時・NHK広島局放送部員。 神奈川県在住。92歳。
当時・幼児。         広島市在住。5歳。
同じく。           廿日市市在住。5歳。
当時・小学校一年生。     広島市在住。6歳。
同じく。           広島市在住。6歳。
同じく。           埼玉県在住。6歳 (「はだしのゲン」の作者)。

 可能性としては、92歳マイナス5歳=87年間。1945年プラス87年間=2032年まで。

 被爆者はあと、可能性としては24年間、生々しく自らの体験を語り得ます。被爆体験の記録、聞き取りと記録、伝達を目指す全国のみなさまのご参考まで。

 「被爆証言を聞けるのはあと10年が限度」と公言する広島市の行政の担当部門責任者。それをそのまま書く新聞記者。共にいかがなものでしょうか。 (伊藤明彦)


■2008.2.28
核兵器再使用とジャーナリスト

 ジャーナリストは、核兵器再使用に反対する、特別の職業的理由を持っています。核兵器が再度使用されたとき、彼または彼女は、ジャーナリズムの良心に従って、「ニュースの現場」に少しでも近づこうとする限り、残留放射能によって、死亡したり、一生続く後遺症を背負い込む可能性があることを、今は知っているからです。チェルノブイリでは、多くの消防士や記録映画製作者が、「現場」に近づきすぎたため、「職業的死」を遂げました。

 ヒロシマ・ナガサキの記者たちは、残留放射能についての知識がまったくなかったため、少しでも「ニュースの現場」らしいところに近づこうと努力しました。これからはそうは行かないでしょう。

 もっとも苦しい選択を強いられるのは、だれを「現場」に送るかを、決めなければならない、ジャーナリズムの現場幹部です。記者本人は死を覚悟しても「行きたい」と言うかも知れませんが、家族のことを思えば、つらい選択をしなければなりません。

 フリーのライターにこの話をしましたら、「真っ先に投入されるのはわれわれだろう。どうせわれわれは消耗品。死んでも金一封で゛済むのだから」と、渋い顔をしておりました。

 すべてのメデイァ所属のジャーナリストも、フリーの仲間たちも、反対いたしましょう、核兵器の再使用に。立ち上がりましょう、「反核世界ジャーナリスト会議」結成の呼びかけに。(伊藤明彦)


■2008.2.27
「国」は「国」護るのみにて「国民」は

 「国」は「国」護るのみにて「国民」は 護らぬものとすぐに悟れり

  昨年広島で取材中、被爆者のお話を伺っているうちにたくさん生まれた短歌のひとつです。
「あたご」の事件を知って、とっさに思い出しました。「国」が「国民」を護らぬことに「有事」「平時」の違いはないようです。

 かつて「国」は「御国」で、「国体(天皇制)護持」が、「御国イデオロギー」の中核でした。「国体護持」が不明確であった(実は米国務長官バーンズがわざわざ削った)ことが、日本政府にポツダム宣言受諾をためらわせ、米国に原子爆弾投下の絶好の口実を与えました。

 「国」とは、「国民」には恐ろしい言葉です。(伊藤明彦)


■2008.2.26
「被爆直後の広島にはニュースがなかった」

 「被爆直後の広島にはニュースがなかった」とは、1973年にお目にかかった、当時の同盟通信広島支局記者(故人)の述懐です。 お判りですか?

 被爆地広島には犠牲者の遺体が散乱し、被災者は「書いてくれ、世界に伝えてくれ」と泣き叫んでいた。

  しかし当時、「ニュース」とは、権力機関が「発表」し、「書く事を許可するもの」でした。行政機関も、最大の「ニュースソース」だった軍機関も、爆心地にあって壊滅した広島には、したがって「ニュースがなかった」のです。「許可していただける」機関がなくなってしまっていたのです。

 広島、長崎の焼け跡に残っていたのは「権力発表ジャーナリズム」、「権力御用ジャーナリズム」(それを「ジャーナリズム」と表現できたとして)だけでした。 ジョン・ハーシーがやってきて、「ヒロシマ」を書くまでは。

 ふたたびこの道を歩んではなりますまい。(伊藤明彦)

原爆ドーム・夜(07.4)

■2008.2.25

「世界被団協」の結成に被爆地ジャーナリズムの支援を


 「世界被団協の立ち上げを」と言うと、途方もない課題のようですが、そうでもないかも知れない、と言うのがわたくしの意見。韓国には被爆者の組織があり、チェルノブイリの被爆者の実態は、医師、医療機関の努力である程度つかめているようです。マーシャル共和国の政府は、核実験被害者の救済にに大きな関心を持っていると思います。 

 現在判っているヒバクシャだけでも糾合して「世界被団協」の旗揚げして、一本の「指」を立てておけば、「とまってくる」あちこちの核兵器の犠牲者があるのでは。日本の被爆者が半世紀かけてかちとった、被爆者援護策の実績は、救済を求め、苦しんでいる世界中の核兵器犠牲者の大きな関心を呼んでいるのでは。

 ウラン鉱山、核兵器・核物質製造工場の労働者、核実験場の「風下住民」、きのこ雲の下に突入させられた{アトミックソルジャー}などなど、地上に溢れている犠牲者が団結して声を上げれば、もう一度核兵器を使おうとする意思に、大きく障害を作ることになるのでは。最初の目標は犠牲者の「救済」だけ、「物取り主義」でいっこうにかまわないと思います。

 中心になりうるのは日本の運動でしょうが、高齢化した被爆者には重い課題。被爆国、被爆地ジヤーナリズム、日本の原水禁運動の呼びかけ、支援を期待してやみません。(伊藤明彦)


■2008.2.18

ある女医先生の思い出


 1972年秋から75年春まで2年半、広島に滞在して被爆証言の録音記録作業に従事していました。ひとり、海の底で真珠貝をさがす潜水夫のような、チョー心細い心境でした。放送局記者という肩書きをなくした自分を、被爆者は相手にしてくださるだろうか。だいいち広島で食べていけるだろうか。

 そのときたえず葉書で励ましてくださったのが女医先生。東京代々木病院の被爆者治療専門の臨床内科医師です。走り書きの葉書の言葉は決まっていて、「あなたのやっていることは将来的に意味があることだからしっかりがんばりなさい」。毎回それだけ。 しかし「潜水夫」には、「幾十ひろものこの波の上には一艘の小舟が浮かんでいて、誰かひとりは見守ってくれている。ときどき空気を送ってきてくださる」という、大きな励ましになったのです。

 「多忙な先生がいつもお葉書をくだされるのは、買い置きの葉書と住所録をいつも手元に置いていて、お仕事とお仕事のちょっとした隙間に書かれるからにちがいない。自分も習いたい。人生の半ばでよいことを教えていただきました」との便りには、「その通り」とのご返事。

 録音が1000人に達し、作業が新聞の片隅に、たまには報道していただけるようになると、お葉書はぴたりと来なくなりました。心に届いたのは無言の便り。「この男は、もうほおっておいても大丈夫。コケずにひとりで歩いて行けるだろう。自分の役割は終わった」。逆の対応をしてくださった方のほうが多いのですが。

 「われわれの人生とはなにか。けっきょく人との出会いだ」とはある広島の老被爆者の言葉。女医先生にお目にかかったのは生涯一度だけ。対話したのは数分間です。しかし私は、そのとき確かに「人と出会った」のです。

 千葉正子先生。昨年9月没。行年94歳。戦前から左翼運動でしばしば逮捕、留置。非転向。昨日(2月17日)東京で「偲ぶ会」がありました。(伊藤明彦)


■2008.2.18
「反核国際ジャーナリスト会議」の立ち上げを


 自治体の首長は立ち上がって、「世界平和市長会議」を結成しました。

 法律家は立ち上がって「国際反核法律家協会」(IALANA)を結成しました。

 医師は立ち上がって「核戦争防止国際医師会議」(IPPNW)を結成しました。

 日頃、高邁な論説をもって世人を説諭しておられる被爆国言論機関、被爆地ジャーナリズムはなにをしておられるのでょうか。

 もう一度核兵器を使用しようとする意思と、阻止しようとする意思のつばぜりあいが、当分続くでしょう。「反核国際ジャーナリスト会議」の結成は、「世界被団協」の結成と並んで、「阻止の意思」に、新しい、有力な力ををつけ加えるでしょう。 

 「反核国際ジャーナリス会議」の結成に対する、被爆地ジャーナリズムのイニシャティブを望んでやみません。 (伊藤明彦)


■2008.2.9
「個人情報保護法」は稀代の悪法


 30年ぶりに広島に滞在し、お話いただける被爆者を見つけだすため頼りにしたひとつは、30年前の名簿です。ところがその後の町村合併、町名地界の変更によって、現在のご住所が判らない。特にかつて郡部だった安佐北区、安佐南区、佐伯区、安芸区など。

 そこで区役所へ行って、現在の所番地を尋ねると、「それは個人情報だから教えられません」と、断固としてはねつけられるのです。やがて知恵がついて、個人の名前を出さず、地名だけ聞く。「なんのためそんななこと調べるのですか ?」。「自分史を書きたい。ここらが母方の本籍地だもんだから」と言ってみると、でっかい地図を出して教えてくれる。

 その他、被爆者についてなにかを知ろうとすると、あらゆるところで立ちはだかったが「個人情報保護法」の壁。面倒くさいこと、「前例がない」ことをハネつけたい、小役人根性の絶好の口実になっています。故城山三郎さんはこの法律に猛反対されたそうですが、卓見でした。

 こわいのは現場の記者、ディレクターに、「調べようとしてもどうせダメ」という空気が感じられること。日本新聞協会その他のしかるべき関係機関が実情を点検し、適切な思表示をされることを切望します。(伊藤明彦)


■2008.2.4
技術のうしろを人間の意思がおいかける時代

 中学校の英語の時間、「 where there is the will (意思があるところに)  there is the way(道がある)」という英語の格言を習いました。強い意思があれば、道はおのずと開ける、という意味でしょうね。情報革命の時代は逆転していることを痛感します。「道があるところに、意思が生まれる」です。

 30年前、「被爆者の声」を収録していたころ、それをアメリカの青年たちに聞かせるなど、思いもよりませんでした。アメリカは太平洋のかなた、米国の政治、経済の中心は、さらに北米大陸のかなたです。インターネットという、Way、 hight-way が、太平洋のかなたに向かってかかっていることに突如、気がついたのです。道がある以上、歩いてゆかないわけにかない。ということで始めたのが、「被爆者の声」英語版、「Voices of the survivors from Hiroshima and Nagasaki」。

 思えば冷戦中の核兵器開発競争がそうでした。弾頭の爆発力は広島・長崎型の3000倍以上になり、プロペラ機で7時間かけて運んでいたのが、大陸間弾道弾で射程8000キロを一時間以内で飛ぶようになり、命中精度はいやになるように正確になり、マーブ(多核弾頭)化し、ついに「相互確証破壊(MAD)」という、怪奇な合意が成立したこの過程、米ソとも、相手が憎くて憎くてならぬという、人間の「意志」が督励して、「技術」を開発したのではありません。

 「大統領(あるいは書記長)大変です、大変です。こんな技術が開発されてしまいました。この技術に見あった、わが国の核戦略、安全保障政策を考えだしてください」。「そりゃ大変だ。さっそく幹部会議を召集しよう」。人間の意志が、息せき切って技術のうしろを追いかけたのです。

 技術はもともと中立なもの。この時代、技術をどっち向きに生かすか、人間は問われていると思います。 (伊藤明彦)

※「被爆者の声」を記録する会代表の伊藤さんから投稿いただきましたので掲載します。(編集室)